憲法9条を先進的だと思ってる日本人が、根本的に誤解していること

なぜ、在日米軍のオスプレーを心配し糾弾するリベラルは、異国の地ジブチで今も活動する自衛隊機を心配しないのか? 世界屈指の「紛争解決請負人」として活動する伊勢崎賢治氏が、日本人の非常識な「思い込み」をわかりやすく解説する。

日本人の「拒知」の壁

戦争。戦闘。衝突。自衛戦。自衛権の行使。……

何と呼んでもいい。必要最小限であろうがなかろうが、それが国軍であろうが、義勇兵であろうが、広域暴力団であろうが、国家主権の下に動く実力組織の敵対行動には「ルール」がある。

それが、「開戦法規」(国連憲章51条)と「交戦法規」(国際人道法)。このルールの仕組みについては、筆者なりに日本人向けに平易に説明してきたつもりだ。

でも、伝わらない。壁がある。

無知それ自体は問題ではない。全ての人間はそれぞれ違う分野で無知なのだから。

しかし、この分野に関しては、無知の解放を拒む壁が、明らかに、ある。それは、日本国憲法誕生以来、何も“変わらなかった”ことが続いた結果、無知が盲信化した「拒知」の壁だ。

そして、この壁は、その無知を“既得得票”とする政治によって、常に補強され続けてきた。

この壁を崩すため、今一度、説明を試みたい。「拒知」の正体は、日本人の、war(戦争)に対する根源的な誤解である。

自衛=「war」

僕のように多国籍軍と一緒に働いてきた実務家にとって、現場で常に念頭に置いている最大の懸念は、我々自身の行動が国際人道法の違反、すなわち「戦争犯罪」を起こすか、である。

多国籍軍は、それぞれ一応はちゃんとした法治国家から派遣されてくるから、武力の行使は原則的に「自衛」である。

自衛のための武力行使ができる「開戦法規」上の要件は、まず攻撃を受けることである。そこを戦端として「交戦」が始まる。

開戦法規に則る法治国家である以上、自分から「交戦」状態をつくることはできない。ここが重要である。つまり、戦端はこちらから開けない。法理上、「交戦」は常にあちらからやってくる。

これが「自衛」の前提である。

その「交戦」が始まった場合、その戦端を開いた敵と我々は、双方が交戦主体(party to armed conflict)として、交戦法規上、法的に対等になる。我々の応戦が必要最小限であろうとなかろうと、同じ交戦法規で定められた違反行為の制約を、敵と全く同様に、受ける。

その違反行為が、war(戦争)crime(犯罪)だ。国連PKOの現場でも、war crimeは、我々自身を日々戒める定着した用語なのである。

自衛、特に個別的自衛権を開戦法規上の理由として、2001年9.11同時多発テロを契機にアフガニスタン、タリバン政権に対して開戦され、現在も継続する「テロとの戦い」。その中で、米軍が現地の病院施設等への誤爆の際に、欧米メディアを賑わすのは、正に、war crimeである。

つまり、自衛は、warなのだ。

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